1994年8月10日、東欧旅行。 東ドイツのドレスデンからチェコへ、早朝国境を越えるために出発。ガタボコ道をスピードを出して進む。しかし国境には長蛇の車の列、 古いボロボロの荷台に荷物を満載した大型トラックが続く。 いつ動くともしれず、パスポートの検査のため、バスの中でじっと待つ。 二時間くらい待たされる。やっと抜ける。 

チェコ側に入ると、検問所あたりから、道の両側に女性がたくさん立っている。 審査の待ち時間を利用して、運転手相手にお金を稼ぐとい。それも十代くらいの若い女の子で、父親が朝連れてきて夜連れ帰るという。 一家の食事代を稼がせるという。 何とも悲惨な運命なことでしょう。 それだけ貧しいということでしょ。 女の子達は下半身裸で寒さで震えていました(もちろんスカートは付けていますが、下には何もはいていないということです)。 

最近この地方に旅行にいかれた友人がいたので、この話しをしましたら、「今もその通りで、たくさん立っていましたよ」。ということです。何年か経ったのに、まだ変わらないのでしょうか。 

最も最近はもっとお金がほしいから、やっているのでしょうか。 ロシアあたりでは、公娼は公然とした仕事として認められている、と聞きます。 若いうちだけ出来る仕事で、若いうちにたくさん稼いで、年になったら、それを元手にお店を持つといいます。

日本では考えられないことが、外国では起こります。

道路は一段と悪くな。 舗装があるような無いような道を揺られながら、プラハに行く途中のテレジン強制収容所へ。 プラハの北1時間位の所にある。 

1780年、プロシャからボヘミアを守るため造られた町。後期バロック様式で、碁盤の目のように整然としていた。 

しかし有名になったの、第二次世界大戦で、ナチスドイツがチェコ国内最大の強制収容所を作り、16万人以上のユダヤ人やレジスタンスなどを送り込み、3万6000人がアウシュビッツやビルケナウに送られて、殺された。 

 

 

この収容所の27番の壁の前でも、7000人の処刑が行われた。14歳未満の子供が1万5000人もいた。生還できた人は100人もいないという。1945年5月、ソ連により開放された。  

手前には逃亡防止の深く長い掘りがあります。

国立墓地。29172人のナチスの犠牲者を葬ってあります。

現在は要塞は一般公開されていますが、この当時は入り口と墓地だけでした。 物見遊山の観光客は、お断りということでした。 

現在はそんな固いこといわず、辛い時代より観光優先ということでしょうか。

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